この世は長谷川ふみについて空(シューニャ)であるので生きるのが苦痛

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ゆゆ式 Advent Calendar 2020の23日目です。
ゆゆ式11巻素晴らしいですよね。特に長谷川ふみちゃん。この記事では11巻108頁で言及されている空(シューニャ)について、長谷川ふみちゃんと意地でも関連付けて書きます。​

なぜわざわざ空の話するの

このシューニャというのはインドの古典語であるサンスクリット語で、ローマ字だとśūnyaと書きます。私は以前、インドの修行者が瞑想だかヨーガだかで神々を見る要領で長谷川ふみちゃんも見れるのではないかと考え、その類の聖典を読むためにサンスクリット語を囓ったことがあります。

当然見当違いだったのですが、ゆずこが空について調べてくれたお陰で、そのどうしようもない徒労をゆゆ式の中に昇華することができました。この記事が書けたのを一応の成果と見做し、報われたことにします。

なお、ゆゆ式での空の扱いに依拠し、空の思想というよりは空という言葉の意味に焦点を当てました。

シューニャの語義

ゆずこが説明するところによると、「実体がない 膨れてからっぽな感じ」です。『岩波仏教辞典』では以下のように説明されています。
固定的実体の無いこと.実体性を欠いていること.うつろ.サンスクリット語のシューンヤは,「・・・を欠いていること」の意. ――(中略)―― このśūnyaはśū(=śvā,śvi,膨張する)からつくられたśūnaにもとづいて,空虚,欠如,ふくれあがって内部がうつろなどを意味し,初期の仏典にも登場する.*3

 ゆずこの説明がいかに的確で簡潔明瞭かが分かりますね。流石かしこマン。カタカナ表記はまあ、当時どのように読んでいたか不確定*4なのでシューニャでもシューンヤでも良いでしょう。ゆゆ式においては、シューニャと読むことで実体のないネコの話へと独自に発展していくのですから、シューニャで良いのです。

仏教の文脈を離れても、例えば英語のサンスクリット語辞典でも、シューニャはempty,void,vacantなどと表現されている*5ので、やはりからっぽという意味です。

大乗仏教では、その思想の根本的な要素となっています。『般若心経』の「色即是空」がそれで、あらゆる物事には実体がないという意味です。

俺たちがシューニャちゃんだ。

初期の仏典における空と長谷川ふみ

突然の長谷川ふみ。

空を「実体がない」の意で使っている初期の仏典もありますが、ここでは「欠如」の意での用例が見られる『小空性経(cūḷasuññata-sutta)』を挙げます。なぜならふみちゃんの話がしやすいから。

これはサンスクリット語ではなく俗語であるパーリ語で書かれているので、シューニャ(śūnya)ではなくスンニャ(suñña)になっています。

以下に引用するのは、ミガーラマーター殿堂に住んでいるブッダが、アーナンダ長老に空性(空であること,suññatā)を説くシーンの最初の部分です。

たとえば、アーナンダよ、このミガーラマーター殿堂は象・牛・馬・牝馬について空であり、金・銀について空であり、女性・男性について空です。ただ、この不空性のみが、すなわち比丘僧団による一性があります。*7

不空性は空でないこと、比丘僧団は出家修行者の集団のことです。

この殿堂には、本物の生きた動物や、財産としての金銀や、住んでいる在家の男女というものは存在しない。しかし、比丘僧団は常に存在する。このことを空である、空でないと説明しています。

さて、長谷川ふみちゃんですが、私たちのこの世界には、本物の生きた長谷川ふみちゃんが存在しません。イラストやアクリルスタンドなどで表わされているのみです。これは丁度、殿堂の中に絵画や像でのみ動物が存在し、本物の生きた動物は存在しないという状況と重なります。

故にこの世は長谷川ふみについて空であると言えます。本物の生きた動物を見たければ殿堂から出れば良いのですが、本物の生きた長谷川ふみちゃんを見るためにこの世から出て、ゆゆ式の世界もしくはエトワリアに行くことはできません。つらい。

大乗仏教における空と長谷川ふみ

あらゆる物事には実体がないので、長谷川ふみにも実体がないということになります。

全ては相互依存によって成立しており、各々に実体があって個別に成立しているわけではない。実体がないからこそ諸行無常なのである。全ては有でも無でもなく空である。空は全てを包容し、全ては空を原理とする*8。なんかこういったことを説きます。

さて、長谷川ふみ要素の補充のため、直接は関係ないのですが、こうした空の思想と比較されることのある西洋の哲学者、バートランド・ラッセルの思想を挙げ、そこにふみちゃんをねじ込みます。

 実体とは、諸性質の主語となるもので、そのすべての性質から区別される何物かである、と考えられている。しかし諸性質を取り去ってみて、実体そのものを想像しようと試みると、われわれはそこに何も残っていないことを見出すのである。*9

諸性質はあるようだけれど、その実体はない。膨れているけどからっぽであるという感じがなんとなく掴めると思います。

 実際には「実体」とは、さまざまな出来事を束にして集める便宜的方法にすぎない。われわれはスミス氏について、何を知りうるであろうか? ――(中略)―― 「フランス」というような語が単なる言語的便宜であり、その地域のさまざまな部分を超越して「フランス」と呼ばれるような事物は存在しない、ということは誰にだって理解できるのである。同じことが「スミス氏」にも当てはまる。それは、多数の出来事に対する一つの集合的な名称なのである。*10

同じことが「スミス氏」にも当てはまるので、「ふみちゃん」にも当てはまります。つまり、ふみちゃんのさまざまな特徴や言動を超越して「ふみちゃん」と呼ばれるような実体は存在せず、単に便利だから「ふみちゃん」という名称でそれらをまとめているにすぎない、ということです。

まさかとは思いますが、「ふみちゃん」とは、想像上の存在にすぎないのではないでしょうか。まあ、この文脈だと私もあなたも想像上の存在にすぎないのですが。存在していると見做されているものも含め、万物がこんなあやふやな何かなんですから、ふみちゃんも存在しているってことで良くないですか? だめですか。

空まとめ

この世は長谷川ふみについて空であるので生きるのが苦痛

いるかいないかの話でも空(いない)ですし、長谷川ふみそのものに関しても空(実体がない)です。後者はそれを言うならみんなそうだからまだ良いとして、特に前者が無理。

ふみちゃんがあまりにも尊すぎるため、私にとってふみちゃんは最も現実味があり、最も信用できる存在でした。だからこそ、ふみちゃんはそこに実在していると思っていたし、ふみちゃんを支えにして生きてこれた訳です。しかしながら、7年も生きていると、今まで自分に寄り添ってくれていたのがせいぜい「イマジナリーふみちゃん」であるということが分かってきます。ほらもう無理。イマジナリーふみちゃんと一緒に消えたい。

ふみちゃんはこの世のものとは思えないくらい可愛くて尊いんだから、最初からもっと素朴に天国とかに永久不滅の長谷川ふみちゃんを望んでいれば良かった。

以上、サンスクリット語が出てくるゆゆ式はすごいし、ふみちゃんは実体がなくて可愛いという話でした。嘘書いてると思うのでサンスクリットで謝ります。क्षमध्वम् ॥


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*1:三上小又,『ゆゆ式 (10)』,芳文社,2019,裏表紙.

*2:三上小又,『ゆゆ式 (11)』,芳文社,2020,108頁.

*3:中村元 他編,『岩波 仏教辞典 第二版』,岩波書店,2002,238頁.

*4:辻直四郎,『サンスクリット文法』,岩波書店,1974,5頁.

*5:Vaman Shivaram Apte,“THE PRACTICAL SANSKRIT-ENGLISH DICTIONARY”,MOTILAL BANARSIDASS PUBLISHERS PRIVATE LIMITED,1998,p.1664.

*6:三上小又,前掲『ゆゆ式 (11)』,89頁.

*7:片山一良 訳,『パーリ仏典〈第1期〉5 中部(マッジマニカーヤ)後分五十経篇Ⅰ』,大蔵出版,2001,348頁.

*8:中村元,『中村元選集 決定版 第22巻 空の論理』,春秋社,1994,240頁.

*9:バートランド・ラッセル,市井三郎 訳,『バートランド・ラッセル著作集11 西洋哲学史Ⅰ』,みすず書房,1959,367頁.

*10:同上,367-368頁.